お客様各位
日頃よりお食事・宿泊旅館 松沢屋をご愛顧頂きまして
誠にありがとうございます。
当館ではこれまでと同様に、
お客様の健康と安全を最重視しております。
只今シャワーのみのご使用になります、ご了承くださいませ。
新型コロナウイルスに関する状況が日々変化する中で、
お客様に安全なご旅行を楽しんで頂けるよう万全を尽くし、
最大限に柔軟な対応に努めてまいります。
お食事・宿泊 旅館松沢屋 店主
百年という時を越え
受け継がれるストーリー
昭和初期、
女手一つで子供を育てながら屋台を構える商売上手な女性がいました。
当時、屋台(呑み屋)は川に沿って幾つも幾つも並んでいましたが
その能力を見事に発揮し、一際目立って利益を上げておりました。
商売が 上向きになってくると、すぐに食堂へと切り替えました。
手打ちのうどん・寿司は非常に人気を集め、
ビジネスはさらに大繁盛しました。
磯部 千代
そこで、彼女は敷地拡大を検討。
早速地主に交渉すると
「お前になら譲ってやる。縁起の良い土地だぞ」と言われたそうです。
有り難いことにトントン拍子に物事が進み、
今の旅館松沢屋の敷地が出来上がりました。
今現在、美しい海を眺められるのは、
この地主の方の粋な計らいにより実現したのです。
この商売上手な女性こそ、当旅館の創設者です。
彼女が土台となる部分を築き上げ、
素晴らしい家宝を受け渡してくれました。
つまり彼女の存在が無ければ、
旅館 松沢屋は生まれていなかったのです。
彼女への深い感謝と共に、
代々引き継がれてきた家業・土地を大切にせねばと日々感じております。
さて創業者の母親が引退をし、彼女の意向を引き継ぐのかと思いきや
創業者:磯部さわ子(当時16歳)は、強い意思の元旅館を始めました。
余談ですが、松沢屋の名付け親は母親 :千代でした。
松は非常に縁起の良い木だ。
そして、"さわ"子(祖母)と"沢"山の意味で”松沢屋”
磯部 サワ子
こんな意味を込めて、旅館 松沢屋と名付けられました。
当時は、お客様の殆どが知多四国巡りをするお遍路さん達でしたが
それでもたった一人で接客・料理をこなし、切り盛りをしていました。
一度に60名ご宿泊をして頂くこともあり、
大変忙しい日々を過ごしました。
彼女の献身的な努力により、
旅館 松沢屋は皆様に愛される旅館となりました。
彼女無しでは、今の松沢屋は無かったでしょう。
最期の瞬間まで、
松沢屋のマスコットキャラクターとして愛された二代目は偉大でした。
三代目は、中学卒業と同時に料理人の道へと進み始めました。
地元を離れ、名古屋の老舗にて何年もの修行を経て、
技術とセンスを磨きあげながら、
料理人としてのキャリアを積んでおりました。
結婚、出産後もしばらくは名古屋にて生活をしておりましたが
磯部 仲治
二代目の引退を機に、南知多町へ引越しを決め旅館を引き継ぎました。
更なる商売繁盛を意気込みましたが、
すぐに大きな壁にぶつかりました。
名古屋にて修行をした為、
地元の味に馴染みがなかったのです。
好みに差がある事実を知り、
二代目の指導の元、味を調節する事にしました。
そして、味付けに限らず、盛り付け・メニュー構成も全て変更。
試行錯誤の上、努力が実り、
再度"大人気"旅館 松沢屋は復活を遂げました。
また予想外の相乗効果が起き、
名古屋時代に三代目の常連様であったお客様たちが
こぞって当旅館をご利用くださり、さらに賑わう結果となりました。
特に三代目のの作るお吸物は多くのお客様より高評価を頂きました。
三代目は大変穏やかな性格でしたが、
仲間想いな熱い部分も持ち合わせていました。
地元の料理人や経営者たちへ料理・メニュー内容等々の指導を行い
南知多町全体の旅館業へ精力的に貢献を致しました。
常に謙虚な姿勢で仕事をこなし、
料理人である事へ強い誇りを持っていた三代目。
彼の存在の大きさは、今でも家族一同日々感じております。
松沢屋は"血縁関係"にある者が家業の引き継ぎ、
形を変えながら歴史を刻んで来ました。
しかし松沢屋に更なる繁栄をもたらしたのは、
大女将である事は間違いありません。
大女将は幼少期から
大変壮絶な人生を歩んで来ました。
岐阜県可児市の商人一家に生まれ育った大女将。
描画する才能に長けており、フランス留学を夢見る少女でした。
磯部 ます美
彼女の才能に可能性を感じていた父親は、
「卒業後、フランス留学に行ったら良い!」と後押ししてくれていました。
そんな未来への期待に胸を膨らませていた少女に悲劇が襲い掛かりました。
彼女が10歳の時、母親が病気で他界。
あまりにも早い別れだった為、大変心細い想いを致しました。
特に、同級生が母親に髪を結ってもらう姿には
心を痛めたと言います。
更に第一次・第二次世界大戦が勃発し、
兄弟達は兵士として戦場へ派遣されました。
しかし奇跡的に兄弟みな生還することができ、
心から神様に感謝したと彼女は言います。
これで安泰である!と思ったのも束の間でした。
突然、彼女が心より慕っていた父親が病気で他界。
たった12歳で両親を失いました。
父親の他界を悲しむ暇もなく、
恐ろしい現実が彼女を襲いました。
立派な商人として、
多くの小作人を養ってきた父親を失った瞬間に
周囲が手のひら返したように、
彼女を疎ましく扱ったのです。
全て財産は取られ、住む家すら失いました。
その時に、こう悟ったそうです。
他人に頼らず自分の力で突き進んでいかなくてはならないと。
他の兄弟達は、知りもしない親戚たちに引き取られて行く中、
彼女の可能性を見抜いた兄嫁が
「私が面倒をみる」と大女将を引き取ったそうです。
「世の中に出ても恥ずかしくないよう、学校だけは出ておきなさい!」
そう教えられ毎日働きながら学校に通ったそうです。
努力の甲斐があり、
学年2位という優秀な成績で卒業し、大企業に就職。
会社でもリーダーシップを発揮し、
上司には頼られ・部下達には慕われる存在でした。
実際に退職をした後も、
彼女に話を聞いてもらいたいと旅館へ足を運ぶ人たちも居ました。
頭脳明晰でビジネスの能力も持ち合わせた大女将は
職人気質の板前である三代目と共に
二人三脚で松沢屋の大きな繁栄に貢献致しました。
歯を食い縛り、自分だけを信じて生きてきた。
その強さは称賛に値します。
壮絶な人生を駆け抜けた大女将は、
多くの人々の希望の光となりました。